第二二回式年 三ツ山大祭

歴史を紐解く


「三ツ山大祭」とは…
総社では、古来より臨時に行われてきた重要な2種類の祭礼があります。
時代の変遷は経ていますが、現在は60年ごとに「丁(てい)卯(ぼう)祭/一ツ山大祭」20年ごとに「臨時祭/三ツ山大祭」が執り行われています。


起源は、藤原純友の乱・平将門の乱を鎮定するため、天慶2年(939年)に斎行された「天神(てんしん)地祇(ちぎ)祭」に由来するとされていますが、はじめは式年(定まった期間)ではなく、天災や特に国中安泰を願う時、不定期に執り行われていました。


三ツ山大祭が式年となったのは、天文2年(1533年)播磨国守護職 赤松政村(晴政)の下知による時からで、20年に一度行うことが定められてから後も、播磨国の平安と発展を祈るお祭りとして、今日まで一度も途絶えることなく継承されています。


三つの山にはそれぞれ二色山/五色山/小袖山と呼ばれ、二色山には播磨国の大小明神、五色山には九所(くしょ)御霊(ごりょう)大神、小袖山には天神地祇(国中の神々)をお迎えします。
お迎えした神々を本殿の神様「射(い)楯(たて)神」・「兵主(ひょうず)神」が、この時特別に神門の屋根の上に設けられる門上殿までお出迎えし、三つの山にお迎えした神々を接遇されて、共に国の平安と発展を祈ります。



「一ツ山・三ツ山大祭」の開催年と月
「一ツ山大祭」は、江戸時代以前6月11日が丁(てい)卯(ぼう)(ひのとう)の日に当たる年の基本的には6月に開催されていましたが、明治以降は、丁卯の年に変化し、しかも月は不規則となりました。


「三ツ山大祭」は、従来「一ツ山大祭」の臨時祭として不定期に開催されていたものが、天(てん)文(ぶん)2年(1533年)播磨国守護職 赤松政(まさ)村(むら)(晴(はる)政(まさ))の下知(げち)により二十年に一度行うことが定められ、若干の延引(えんいん)(嘉(か)永(えい)7年、本来は6年)はあるものの、今に至っています。
〔1543年(天文12年)、鉄砲伝来〕


「三ツ山大祭」の開催月は、江戸時代以前基本的には9月でした。
明治・大正は不規則となりましたが、昭和以降4月に行われています。


「一ツ山大祭」は、前回昭和62年(1987年)の開催であり、次回は平成59年斎行予定です。


「三ツ山大祭」は、平成25年(2013年)の開催であり、次回は平成45年斎行予定です。


次々回の「三ツ山大祭」は平成45年となり、次回の「一ツ山大祭」までの間に2回の「三ツ山大祭」が斎行されることとなります。

「三ツ山大祭」山の大きさと様相
大永元年(1521年)以前
記録上の山の初見・はじめは曳(ひき)山の装山の車(置山ではありませんでした)


大永2年(1522年)~文禄2年(1593年)
高さ 3間2尺(約6メートル)
曳山から置山の装山となっています。
色絹で三山とも巻かれ、領主が全部これを造成しています。


慶長18年(1613年)~享保18年(1733年)
高さ 50尺(約15メートル) 直径(底部) 25尺(約7.5メートル)と山が巨大化しています。
飾りの華麗化進み・造り人形がこの頃から貼り付けられています。


明治~現在
高さ 16メートル 直径(底部)10メートル
三山の形式が整い、造り人形、造花をもって華麗な「やま」に復しました。




「三ツ山大祭」文化財としての価値・意義
先ず「三ツ山」神事そのものが、昭和49年(1974年)3月、「兵庫県指定重要無形民俗文化財」と認定されました。
〔1974年、小野田(おのだ)少尉(しょうい)フィリピンルバング島より帰還〕


昭和62年(1987年)斎行の「一ツ山」神事の調査の結果、両祭を合わせて、翌昭和63年(1988年)2月に播磨総社「一ツ山」・「三ツ山」神事として追加指定及び名称変更されています。
〔1987年、国民的スター石原裕次郎死去〕


兵庫県指定の重要無形民俗文化財は、「長田神社の追儺式」等14件あり、姫路では、「大塩天満宮の獅子舞」・「魚吹八幡神社の秋祭り」・「灘の喧嘩祭り」などがあります。


文化庁長官により選択無形民俗文化財に選ばれています。



※選択無形民俗文化財=文化庁長官は、重要無形民俗文化財以外の無形の民俗文化財のうち特に必要のあるものを選択して、自らその記録を作成し、保存し、又は公開することができるものとし、国は、適当な者に対し、当該無形の民俗文化財の公開又はその記録の作成、保存若しくは公開に要する経費の一部を補助することができる(文化財保護法第91条で準用する第77条)としており、この規定により文化財長官によって選択されたものを、選択無形民俗文化財という。但しこの名称は通称であり、正式には記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財という。
三ツ山大祭を無形民俗文化財とするところ
(1)播磨国総社の祭礼として連綿と受け継がれてきたこと。
・射楯兵主神社の祭礼ではなく、播磨国総社の祭礼として、連綿(500年間 世代で云うと20代)と受け継がれてきたこと。

(2)都市祭礼・城下町祭礼の中で置山の形式を残していること。
・都市祭礼・城下町祭礼の中で、曳山祭礼(京都祇園祭の山鉾巡行等)にならず、置山の形式を残していること。

(3)「五種神事」に代表されるように、中世的な祭礼の要素を伝えていること。
・「五種神事(流鏑馬・競馬・神子渡・一ツ物・弓鉾指)」に代表されるように、中世的な祭礼の要素(平安時代都で「一つ物」等の行事が流行するが、急速に廃れていった。又流鏑馬・・・のようなセット的な行事)を伝えていること。
・池の真ん中に石を投げ入れると、その波紋が周りに広がって行くように、文化は徐々に中央から地方に伝わって行き、やがては末端に行き着くが、中央即ち京都に近い播磨国に今でも残っていると云うことが、貴重なのです)

(4)造り山の中で最も原初的な置山であること。
自然の山→置山→曳山→舁山→壇尻船
・造り山の中で最も原初的な置山であること。(置山の祭礼は今では当社のみです。)
・自然の山(三輪神社)→置山(播磨国総社)→曳山(八坂神社)→舁山(松原八幡神社)→壇尻船(家島神社)


(5)守護職・城主の下知の元、官民一体となって三つ山大祭を執り行ってきました。
・成立期即ち大永元年には、守護職の下知の元、国衙庄を中心とした国府寺・宿・福中の三村が山元となり祭礼を行い、江戸期よりは、城主の下知の元、二色山・五色山を城主が、小袖山は町方の手によって造られています。)